最後の長老 (2)

私はこれまで、JUMUが氷河期にやってきたように、上に人類を引き上げるなりして、絶望を防げなかったのかお聞きしました。すると銀河団は「ふせげない絶滅ではなかった」といいます。そこでJUMUの責任者(担当者)に確認しました。

JUMU「あえてそういう形にした」「自然に任せる形にした」

虚空蔵「この氷河期は地球全凍結ではないのですから、凍っていない場所に人類を導くことはできたのではないでしょうか」

JUMU「あくまでも自然な形に任せた」

虚空蔵「人類を導くことはしなかったということでしょうか」

JUMU「そうだ」

虚空蔵「なぜ放置したのでしょうか」

JUMU「原人にはそこまで関与しない」

虚空蔵「彼らは原人ではなく人間ですよね」

JUMU「レベルの低いものたちだ」

虚空蔵「決して絶望しなかったあの老人もレベルが低いとお考えでしょうか」

JUMU「あの老人はあの老人でキチンと評価している」

虚空蔵「あなた方が彼らを暖かい場所に導いていれば、彼らの学びの可能性はまだ地上に残されていたことでしょう」

JUMU「この人たちの学びがこれで済んだから」

虚空蔵「その可能性を奪ったのはあなたの判断だが、それは間違いではなかったのか」

JUMU「そうだ」(すごく自信ありげ」

以上がJUMUの当時の責任者と私の交信です。後でこの担当者を確認しました。するとエル・ランティ派のエル・カクタス(カンターレ)でした。事の成り行きはこういうことでした。まずこのサークルの人類を降ろして進化を目論んだのはプレアデス派の人たちでしたが、次第にエル・ランティ派閥が力を得て来て、自分たちの力の誇示のため好き勝手したというところでした(自分たちに力があるというところを誇示したいため、人類をどうにでも操れるというところを見せたいという思いがそこにはあったようでした。つまり人類を絶滅させることなど何でもない、自分たちの力はこんなにすごいんだというところを見せたいというものです。)それではなぜ最初はプレアデス派が人類を監督していたのに、途中からエル・ランティ派に入れ替わってしまったのでしょうか。そこを銀河団にお聞きすると、「力だ」とおっしゃいます。

ここからは銀河団の説明を要約します。つまり最初はプレアデス派が人類を地上に降ろし、新たなサイクルで人類の進化をつかさどうろうとしたのです。ところが途中から力関係が逆転し、エル・ランティ派閥が人類を操るようになってしまったというのです。それではなぜ力関係が逆転してしまったのでしょうか。ここでいつも問題になるのは、地上の人類の思いとJUMUという地球管理者の思いは同通している、お互いに反映し合うという原則があるのです。私たちがプレアデスにつけばプレアデスが力を得て指導しやすくなり、エル・ランティ派に人類が思いを馳せれば、JUMUにおけるエル・ランティ派閥が力を増してプレアデスを押しのけ人類をつかさどる事になるのです。

このシステムを今の人類が認識しない限り、どうにも私たちはこのあり地獄からは抜け出せるすべがないのです。実は私はこのセッションで初めて憤りを表明してしまいました。それは最後の人類になっても生き抜くことを諦めなかった老人をエル・カンタスが「それはそれで評価している」と言ったときでした。

「あなたにこの老人を評価なんかしてほしくない」
「それはむしろ老人の在り様を穢すことになる」

そう申し上げました。(本当はもう少し口汚い言葉を使いました)。しかしそれは「力の原則」の前にはどこにも届かない狼の遠吠えにしか過ぎなかったのです。JUMUの中では私の憤りの表明を聞いている方たちもいるのですが、どうしようもないらしいのです。あの老人は絶望的な環境で、最後の最後まで諦めてはいなかったのですが、彼はそこに信仰を持ち込んでいました。
「神が何とかしてくれる」
「これまで神にすがれば何とかなってきた」
「今回も必ず神が救ってくれるはずだ」
その思いは結局自己の存在を「神」という自分とは別なものへ依存、委託してしまっています。そしてその祈りの行く着く先はエル・ランティ派閥かプレアデス派閥、あるいはその背後で牛耳っているエホバにたどり着いてしまうのです。

私たちは何も知らないまま自らの神聖な(と勝手に思ってるだけなのですが)祈りを、あちこちの勢力のエネルギーの肥やしに配分してしまっているのです。それは「知らないから」という言い訳は通用しないのです。「自己の存在」「アイデンティティ」そういうものを自分の外に委託、依存してしまうことは、その時点で自らの運命を他人に明け渡したということなのです。そのことに対して私はどこにでも誰にも文句をつけようがないのです。エル・ランティ派閥に力を与え続けているのは、地上で信仰をしている方たちなのです(それがどんな宗教であろうとです)。あるいはエホバにエネルギーを供給し続けているのは、自我自欲のままに他者を操り、搾取し、自分だけの快楽に身を任せる人たちでもあります。そういう方たちが多すぎるのです。無自覚のままエル・ランティを信じ、キリスト教に殉じ、それを「ちょっと違うのでは」とでもいう人がいると、猛然と抗議してくるという方たちが多すぎるということなのです。

それにしてもプレアデス派の人たちは、途中からエル・ランティ派に人類を横取りされて何にもクレームをつけないのでしょうか。確認してみますと、プレアデスの方たちの指導ポリシーは「その人が気がついた時点で応援する」というものでした。中々優等生的で、エル・ランティ派のような声がでかいテキヤ風なやり方とはちょっと違って上品なものでした。(ですから弱いともいえます)。ちなみにエホバはインテリやくざといったやり方をしています。

ここでも私は力の前に、数という力の壁の前で立ち止まってしまいました。

私たちのワークはこの後私たち二人という枠を越えて果たしてどこまで広がっていくのでしょうか。それともここまま収束してしまうのでしょうか。

この本を読み終えた皆様がその答えをお持ちだと思います。ありがとうございました。

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