知る者は云わず、云う者は知らず・・

知る者は言わず、言う者は知らず。そのだを塞ぎ、其の門を閉じ、其の鋭を挫き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵に同ず。是を玄同と謂う。

知る者は云わず、言う者は知らず、とはよく使われる言葉ですが、真実に深い学問を修めた人は、やたらに喋々とその学問についてしゃべりまくることをしませんし、神の道を深く知っている者は、やはり、やたらにその道を相手かまわず説くようなことは致しません。

あまりよくその道のことを知らない人のほうが、一寸でも道の片鱗にふれると、自己の知識を人に知らせ、自分の偉さを示したくて仕方なくなり、誰にでも構わず、その話をしては楽しむ、という形になりやすいのです。
宗教の道を行として体得せずに、知識として知ろうとする人の中には、言う者は知らずという中に入る人が多くおります。宗教の道というものは、言葉として知らせるものではなく、その全人格をもって知らせるものなのですから、人格と言葉とがあまり隔たっていますと、その人がしゃべればしゃべる程、この人は真実のことを何も知らないのだなあ、と相手の人に思われてしまいます。

私が若い頃、トルストイの本を盛んに読んでいまして、話の度びにトルストイはね、というような調子の時がありました。たまたま、トルストイ研究の専門家に、蝶々とトルストイの話をしてしまい、後でとんだ恥ずかしい思いをしたことがありました。それ以後私は、余程確信をもったこと以外は、知ったかぶって話さぬようになりました。いい経験だったわけです。

宗教的知識というものは、蝶々と本を読んだり、話を聞いたりしますれば、誰にでも一応はついてまいります。しかし、その知識の内容を現実生活に現してゆくことが大変なので、その教えをそのまま行為に現してゆくことが道に乗っているということになるわけです。この道に乗り、み心のままを行じているような人は、自分のほうから道の話をしかけてゆくというより、相手に尋ねられて、ぼつぼつ話はじめるというような人が多いのですが、話し出せば、その話は自分が実際に行じているところなのですから、迫力もあり実もある話になり、自ずと人を感動させ得る程の力をもっているのであります。

これは宗教ばかりでなく、あらゆる学問の分野においてもそうではないかと思います。ですから老子は、其のだを塞ぎその門を閉じ、というような言葉で、やたらに、人から聞いたこと学んだことを、すべて真実と思って人々に話したり発表したりせぬよう、一度五感も六感も閉じてしまって、五感や六感で知ったり味わったりしてできた、自分の知識や感覚から生まれた、才気を挫き、華美な想念や装いを解き、あの人は知識才能に秀でているのだな、とても偉くて、光が強すぎて、我々は近づき難い、というように、人に思わせぬように光を和らげ、一般大衆と全く同じように、兵々凡々の人間として、あたかも塵あくたと同じような目だたぬ存在として生きてゆくことが大事だ、という説法をしているのであります。そしてそういう風になった人を玄同の人というのだ、といっているのです。そこで、この玄同というのはどういうことかと申しますと、玄というのは、以前にも説明しましたように宇宙神のみ心の一番深いところ、奥底のことでありまして、私共の宇宙子科学的にいえば、宇宙核の中ということになります。

すべての存在の一番奥のところでは、すべての根源が一つに存在しているわけで、ここのところから、次第に種々様々な生物、存在として分かれてくるわけでありますが、これが只単に植物だ動物だというように分かれてくるわけではなく、宇宙核から中心核、宇宙子核というように分かれ、その宇宙子核から核宇宙子が、その数、角度、流れというように、それも精神的なものと、物質的なものとに区分されながら、分散し集合し分散し集合して、発展していくわけで、その間に現在の地球科学で研究されている、電子や中間子や陽子などの存在があるわけなおです。こうした微粒子群が様々な波動となって、宇宙の運行ともなり、鉱物や植物、動物や人類として発展してゆくわけなのであります。老子のいう玄同とは、こうした宇宙神のみ心の奥のところでは、すべてが一つである、ということで、そういう一体観をそのままこの現象の生活の中で現し得ていることをいうのです。

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