創造性とは (5)

 イエス・キリストはその当時は有名ではなかった。もし聖書がなかったら、彼の業績などなかっただろうことだろう。その業績は彼の4人の弟子に属する。それまで他の誰もイエスについて、彼が存在したのか否かさえ言及してこなかった。彼は有名ではなかった。彼は成功してはいなかった。イエスを超える失敗者を思いつくことができるかな? しかし、徐々に彼は意義深い存在になっていった。徐々に人びとは彼を知るようになっていった。時間がかかるものなのだ。

 偉大であればあるほど、人びとがその人を認めるのには時間がかかる――というのも偉大な人が誕生したとき、その人を評価する基準はなく、その人を見つけるための地図はないからだ。彼は自分で自分の価値を作り出さなければならない。価値を作り出した頃には彼は亡くなっている。 創造的な人がそれと認められるには数千年かかるし、それすら定かではない。数多くの創造的な人びとが、一度も認められずにきた。創造的な人が成功するのはまったくの偶然だ。非創造的で破壊的な人なら、ずっと確実だ。

 だから、創造性の名の下にあなたが何か他のものを求めているのなら、創造的であろうという考えを捨てることだ。したいことはなんであれ、少なくとも意識的に、丹念にしなさい。決して仮面の後ろに隠れてはいけない。もし、あなたが本当に創造的でありたいのなら、お金や成功や地位や世間体は問題外だ。そのときあなたは自分の行為を楽しむ。そのときひとつひとつの行為そのものが価値を持つ。あなたは、ダンスが好きだから踊る。踊りの中に喜びがあるから踊る。もし誰かが評価してくれたら、良し、ありがたいと感じる。誰も評価してくれなくてもあなたが心配する問題ではない。あなたは踊って、楽しんだ――あなたはすでに満たされている。

 しかしこの、自分は創造的ではないという信じ込みは危険をはらんでいる――捨て去りなさい。創造的でない人はいない――木々でさえ、岩でさえもだ。木を知り愛してきた人は、一本一本の木が自分の空間を作るのを知っている。ひとつひとつの岩が自分の空間を作るのを知っている。それは他の誰の空間でもないかのようだ。あなたが敏感になれば、共感力を通して理解できるようになれば、途方もない恩恵を得るだろう。一本一本の木がそれぞれのやり方で創造的なのを見ることになるだろう。他の木はどれもその木に似ておらず、どの木もユニークだ。どの木も個性を持ち、どの岩も個性を持つ。木は単なる木ではなく、木は人なのだ。岩は単なる岩ではなく、岩は人なのだ。岩のそばに行き、座ってごらん―― 愛情深く岩を見て、愛情深く触れ、愛情深く感じるのだ。

  ある禅師について語られていることだ。彼は、とても大きな岩を引き抜き、取り除くことができたという――そして彼はとてもか細い男だった。彼の体つきを見ればそれはほぼ不可能だった。彼以上に強い男、ずっと強い男でもそのような岩を引き抜くことはできなかったが、彼にはとても簡単に引き抜くことができた。

 どんな技を使ったのかとたずねられて、彼は語った。「技などありません――私はその岩を愛しているので、岩が助けてくれるのです。まず、私は岩に語りかけます「私の名声はお前の手中にあるのだよ。この人たちは見に来たのだ。どうか私を助けておくれ、私に協力しておくれ」。そして私はその岩をただ愛情を込めて抱えます…そして兆しを待つのです。岩が兆しをくれるとき――それは身震いで、私の背骨の全体が震え始めます――岩が準備ができたとほのめかしたら、私は動きます。 あなた方は岩に抵抗して動かそうとするので、それほどの力が必要なのです。私は岩と共に動き、岩と共に流れます。実のところ私が岩をどかすという言い方は間違っています――私はそこにいるだけです。岩が自分で動くのです」

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