富士・鳴門の仕組み (3)

国祖の真の姿、それが表面化した文が伊都能売神諭にあります。
           
 伊都能売神諭
「大国常立之尊の元の誠の姿は頭に八本角の生えた鬼神の姿で、皆の神々が余り恐ろしいと申して寄り附かぬやうに致した位いの姿で在るから、今の人民に元の真の姿を見せたら、震い上りて眼を廻すぞよ。」
 大正八年二月十八日
 
 この表記でもわかるように国祖の姿は恐るべき姿です。頑迷固陋の性格が姿として現れています。ミロク神の美しい姿とはまるで対照的なものであることに気付かれるはずです。
 国祖は根本的に申し上げて、宇宙の相応の理を理解していない神でした。国祖は他者に対しては天地の律法で霊主体従(ひのもと)を押し付けておいて、自らは惟神の相応の理である、「瑞が主となり、厳が従となる霊主体従」を理解できない「体主霊従」の神でした。この無理解こそが本末顛倒をきたす原因となったのです。
 聖師は下記のような言葉を残しています。「新月の光」より引用。
 御神書拝読の極意
 結局、神を愛したらよいのである。【霊界物語】にも人を殺したり物を盗んだり火をつけたくらいでは罰されぬ。ただ、神に背いたものは罰されると書いてある。 国祖はたびたび、天祖の顕現である聖師の言葉に逆らい、その経綸を妨害した感があります。聖師の神格を十分に伝えるどころかまったく逆のことを伝えたのです。霊的教えである聖師の教えを抑制して自分の教えである体的教えを先行させて信徒に伝えました。この罪は上記文を踏まえて考えると非常に恐るべきことです。場合によっては開祖国祖信仰とは天祖に逆らうという意味すら発生する可能性も否定できないからです。

天祖を否定する、これはヨハネ黙示録にあった六六六の獣の場合と質はまるで違うものであっても天祖に反抗するという意味で類似することがあるということもその視野に入れる必要性もありましょう。六六六の獣とは五六七という進展主義を取られた天祖の経綸にまったく正反対の方向に向かって逆らうという意味がありますので、広義的なレベルで考察するとそのように解釈できることもあります。国祖自身は【大蛇退治の段】においてオトメたる人民の堕落する姿をみて涙を流し、悲しまれ、人民を救おうと努力する姿が見えますが、しかしながら、国祖の頑迷固陋な性格が災いして結果、
天祖に背くことになっているのです。
 国祖国常立尊の本質は「霊」ではなく「体」の神であり、これを主とする信仰がどういったものとなるかを聖師ははっきりと霊界物語第一巻、「回顧録」に口述しています。

スポンサーリンク

フォローする