すべての教育は「洗脳」である (2)

学びとは「没頭」である

何のために何をするのか、どんな風にするのか、すべてを自分で決め、自ら責任を負いながら突き進む力。新しい時代を楽しく生きるために必須のこの能力を、私はシンプルに「没頭する力」と呼んでいる。

「学び」という言葉の定義について堀江貴文は、「学び」とは、没頭とする。
脇目もふらずに没頭し、がむしゃらに取り組める体験のすべてが「学び」だと。数学や英語、科学、料理、絵画、音楽、ゲーム、ダンス、研究など対象はなんであれ、その人が心から没頭できていれば、それは「学び」なのです。
未知の領域に足を踏み入れ、新しい体験や考え方を味わうことのすべてが学び。だから、場所は学校や企業に限定されないし、正解もない。「学び」は常に能動的で、すべては「自分で切り拓いていく」ものなのです。

没頭している人は、一日中それについて思考をめぐらし新機軸を思いつきます。時間も忘れます。失敗を恐れずに試行錯誤を重ね、努力や苦労の過程も含めて全容を楽しむことが出来るのです。失敗は何回してもいいのです。
学びは、没頭の中にこそある。誰かに言われてする「お勉強」のなかには学びの本質は存在しない。

この本のなかで堀江貴文が、東大受験の際に英単語帳を一冊丸々暗記された話が記されている。

これに取り組めたのは、自分から「英単語を暗記しよう」と決意したからだと。自分で決めたペースで暗記をすすめた。すると、まるでゲームにのめりこむように、その暗記作業に楽しく没頭できた、とありました。

それを読んで、自分の興味に基づいた自分にとって好きな遊びの活動は、誰かが、何かが、邪魔をしなければ、創造する能力を開花させる真剣な学びなのです。
遊びによって育つもの。それは創造力、集中力、思考力、洞察力、行動力、実践力、能動力、忍耐力、体力、技能、個性、自主性、主体性、協調性、自省心、愛他心、etc。いずれも 豊かな知恵を生む貴重な財産 だと!

そう。誰かが、何かが、邪魔をしなければ!同じことを堀江貴文はいう。

学校という集団教育の場は、没頭を否定し、天才を否定し、オールBの常識※を植え付けていく洗脳機関なのである。 では具体的に、学校はどんな手段を使ってその洗脳を行い、すべての子どもをただの凡才に仕立てあげようとするのか。

それは「禁止」である。

あれをしてはダメ、これをしてはダメと禁止のルールを増やしていくことは、非情にコストの安い教育手法だ。教師たちは難しいことを考えず、ただ禁止の柵からはみ出した者を叩いておけばいい。禁止のルールを十分に身につけた子どもたちは、晴れて常識人として、そして凡庸なジェネラリストとして社会に出ていくことになる。

そして彼らは、大人になってからも自分で自分自身の人生にブレーキをかけ続けてしまうのだ。自分自身の人生を生きれていないのである!!

以前、彼が行った近畿大学での伝説の卒業スピーチ「今を生きろ」を思い出した。

義務教育の「常識」を捨てろ

好きなことにとことんハマれ!!

                             

                            堀江 貴文

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